Novel

住みよい時代

 《報酬はカラタチを一株。指定の場所に持参》
 「網」のあるこのご時世に、クレジットでも所有権でもなく実物を要求するなんて変な奴だ、とシガネは一人ごちる。
酒や薬の類ですらなく花を欲しがる者など、その時代にはあまりいなかった。
特に生身で出歩いてる人間がほとんどいないほど大気の汚染されたこの街は、そもそも植物を育てる環境ではない。
たいていの人は安全な家の中から「網」を通して自分のアバターを操ることで外に出る必要のある用事をこなしている。
シガネもまた少女の形をした標準的なアバターを用いてカラタチの鉢植えを運んでいた。
「網」を介してアバターの持つ鉢の重みがシガネに伝わる。
抱える荷物が不安定になっていることを感じたシガネが腕を動かしてそれを持ち直す。
いくら体ではなくアバターを使っているといえど気持ちの上では自分の腕で重いものを持ちながら歩いているのと変わらないため、彼女は普通に疲労を感じていた。

 「網」が実際どのようなものであるかについて一般市民は正確な知識を持っていなかったが、それで不便を感じる者はいなかった。
「いつのころからか地球に存在していた、生身の人間から情報を発信することのできるネットワーク」というのが専門家ではない普通の人間の認識である。
致命的と言っていいほどの深刻な大気汚染の進行と「網」の発見とのどちらが早かったかは判明していない。
「網」を利用しての通信とアバターの実用化があと数年遅ければ人口は冗談ではなく半減していたという。
なお、「網」での通信は人間―アバター間だけでなくアバター同士や人間同士でも有効である。
アバターを相手取るように一方が他方を操るほどのことはできないが、文字情報や画像を送りあうことは可能だ。
人間同士のやりとりができるならば勿論いざこざがあり、会話を盗み聞きされないようにとセキュリティができ、そのセキュリティを破って情報を盗み取る人間が現れ、そういった中で価値のある情報には需要が生じる。
シガネが今運んでいるカラタチの花も、彼女が求めた情報の対価だった。

 アバターや荷物の表面についた埃を払い、シガネは目前にある「指定の場所」を見つめる。
座標はそこで間違いはないが、そこはどう見ても住宅地に立つ一軒家だった。
高性能であったり戦闘用に改造されたりしたアバターを持っていたとしても本人を押さえられればそれで終わりなのだから、情報泥棒たちにとって自宅の位置はどうあっても知られてはならないものの一つである。
だからと言って「網」を通してやりとりを行うと盗み見られるリスクが高いため、報酬をもらってから私書箱のようなものを介して目的の情報の入った記録媒体を受け渡す、というやり方が一般的であった。
自宅の座標を他人に教える、しかも手段として「網」を使ってそうするというのは、常識的に考えればありえないほどに不用心である。
何か目的があるのか、それとも単に変なだけなのか、とシガネは訝しんだ。
確認を礼儀正しい口調で送信する。
《送信した座標に誤りはありませんか?》
《ない。扉に触れて中へ》
必要最低限の内容だけが返信される。
思考をそのまま送信できるせいか、ともすれば話しすぎてしまう「網」を介しての通信にしては不気味なほどに簡潔な話し方をする相手であった。
しかし、何にせよ要求されたカラタチの苗を手に入れるにあたってかなりの苦労を強いられたシガネには今更取って返して諦める気はない。
罠だったら呪い殺してやる、とシガネが形よく造形された頭の中で毒づきながら指示の通りにアバターの手を外扉に触れさせると、滑らかとは言い難い動きで外扉が開く。
玄関に入り、エアシャワーを浴びてから内扉に触って部屋の中へ入った。
 
 「やあ、ご足労ありがとう。疲れただろう、飲み物は何がいい? 緑茶紅茶烏龍茶、コーヒーココアオレンジジュース何でもあるよ。ああ、牛乳は流石にオーガニックのものはないから合成乳なんだけどそこは勘弁してほしい。ところでそのカラタチ、なかなかうまく育っているな。ありがとう」
入室したとたん家の主が彼女に口で話しかけてきたが、シガネはそれの奇怪な外見に驚いていたので返答する余裕がなかった。
彼女の常識ではアバターならともかく生身の人間の頭には獣のような耳がついているはずはなく、もっと言えば獣のような鼻づらをしていて赤茶けた毛が顔に生えていてもはや性別すらよくわからないような、さらに率直に表現すれば人の体の上に犬の頭が乗っているような者はもう人間とは呼べない。
獣面のアバターなんてきっとよほど高価なんだろうな、とシガネは自分を納得させた。
これの本体が虚弱であるならば客の応対をアバターにさせることも不自然ではないし、わざわざ自宅に呼びつけたのは珍しいものを自慢するためだろうと無理やり推測し、そのことについては精神衛生のためこれ以上考えないようにする。
《すいませんが飲食する機能はついていないので、飲み物は結構です。ものの方をいただきたいのですが》
「おやおや、それは残念。食事は実に素晴らしいものだからいつかお金が貯まったらつけてもらうことをお勧めするよ。今の時代なら発声機能より感覚器や飲食機能を優先してつけた方が効率的だし第一豊かだ」
肩をすくめ、鉢をシガネの手から受け取ると、それは大切そうに他の草木の傍に小さなカラタチを置く。
部屋には所狭しと植物が並んでおり、シガネが引き連れてきた外気の埃と煤の匂いを圧するように濃い土と緑の匂いを発していた。
獣がソファに座り、シガネにもテーブルを挟んで向かいの椅子に座るよう手で示す。
肉体的にはともかく気持ちの上では座っているのと立っているのとでは違いがあるため、彼女も断らず座った。
「もの、と言ったが、あなたに頼まれていたのは情報だったね。
わたしはそういったものは物理的に盗まれることのないよう媒体ではなく口頭で伝えることにしているから、しっかり覚えて帰ってくれ。ああ、もちろん盗聴なんかの心配はないから気にしなくていい。ここらはわたしの庭のようなものだ」
獣のウインク。
《わかりました》
なんだこいつ通信と全然キャラ違うんだけどあの素っ気なさは何だったんだよ胡散臭いを越えて引くくらいフレンドリーっつか馴れ馴れしいじゃねえかと内心で叫びつつも、それをうっかり通信に乗せないよう注意しながらシガネは返事をする。
「さてあなたの用件についてだが、安全に海へ行く方法を教えてくれ、ということで間違いはなかったね? ああそう、実を言うとわたしは何しろ古いものだから「網」を使うのは苦手でね。通信ではどうしても素っ気ない口調になってしまうのはそのためだし、だからこそ話す前にこうして確認をとることにしている。まあ、キーボードやなんかを使えば若いものにも負けずにちゃんと仕事はできるからそこは信用してくれていいよ」
《はい。……あ、それで合っています、ええ。間違いはありません》
「それでは本題だ。話の途中で脱線する癖があるので待たせてしまったな、申し訳ない。
 まず何より防護スーツを着ていくべきだ。持っていなくてもアバターよりは安いし買ってでも着ていけ。沖ならともかく、海岸線のあたりは何が腐っているのか分からんが得体のしれない煙が立っていて装備なしではアバターでも危ない。まあこの都市から東……煙が晴れているときに明るい光が空の上へ昇っているのが見えるだろう、それの根元の方角のことだ、に一日も歩けば着く。持っていきたいものはキャスター付きのバッグに入れて行かなければ海辺につく前に疲れてしまうだろうからそうするといい。
そうそう、別にどこかに申請出したり許可をとったりする必要はないよ。もう金目のものはあらかた取りつくされてしまっているし、毒物は持ち帰るにはあまりにもリスクが大きいから誰もそんなことはしないからね。途中で爆発するそうだよ。ただ清掃機や調査機には気を付けること。見つかったらゴミと間違えて処分されたり持ち帰られて隅々まで調べられたりする。
だいたいこんなところかな。行くやつなんてもういないのに、海については中央の管轄だから変にプロテクトがかかっていて調べにくかったろう。一気に言ってしまったけど、もう一度話した方がいいかな?」
《いえ、大丈夫です。ありがとうございました》
「それは重畳」
おどけた調子でそう言って、獣はニッと歯を見せる。
「今日は久々にたくさん喋れて楽しかった。わたしはこんななりだから、外に出ることもあまりできないし通信も下手くそであまり人と会う機会もなくてね。よかったらまた来てくれると嬉しい。くれぐれも道中で死体が見つけられないように気を付けるんだよ」
笑顔のような表情を浮かべたまま、それは言った。

《……何をおっしゃっているのかよくわかりませんが……。死体? なぜいきなりそんなものが出てくるのですか?》
「そのために君は海へ行くんだろう? そのアバターの元々の持ち主が死んだから、それがばれないように海へ捨てるために。おっと危ない」
誰も触れていないはずのカラタチの鉢が獣の頭めがけて飛んできたが、それはやはり歯を見せたまま平然と鉢を手で受け止めた。
表情筋などという高等なものを持ちあわせていないシガネのアバターは、当然のことながら無表情のままで尋ねる。

《なぜそれを知っているのですか、と聞いています。質問に答えるのがあなたの仕事では?》
シガネが立ち上がるとともに、その部屋に置かれていた大量の鉢植えが宙に浮いた。
回答次第ではそれらが先ほどのカラタチのように獣に向かって飛んでいくだろうことは推測に難くない。
シガネの髪がゆらりと揺れ、広がる。
「ふむ、確かに質問に答えるのはわたしの仕事だなぁ。
生業と言っても良いくらいだ。
しかし理由を聞かれると……、性分、とでも言おうか。ついいらんことを知りたがってしまうし、たいていのことは知れる。オフラインでもなんだろうとね。そうそう、草木を粗末にすると神罰が下るぞ」
《神罰? あなた、このご時世にオカルトなんて流行りませんよ。あと、私はどこでそれが漏れたのかっつーのを聞いてるんであって動機はいりません。聞き方が悪かったですか?》
「口調が崩れているが、そちらが素かい? 怒らせる気はなかったのだけれど。まあ正直に答えると、漏れたの漏れてないのというのはわたしには関係がないんだよ。さっきも似たようなことは言ったろう? しかしまいったな、オカルトなんて流行らないと言われてはこちらも立つ瀬がない。こうすれば信じてくれるかな?」
それはその頭に見合うまさしく獣じみた速度で立ち上がり突然シガネのアバターの胴体へ手を伸ばした。
あまりに唐突な動きに彼女も反応できず宙にある鉢を動かすこともできない。
獣の異様に人間じみた見た目の左手は、そのまま、アバターの腹をすり抜けた。
「わたしも君の言うオカルトの眷属だ。千里眼のような能力を持っている。だから海への安全な行き方も君の事情も分かる。透けて見える。これで納得してくれたか? わかったならポルターガイストはやめろ、静かに鉢を下ろせ」
《……へ? けんぞくってつまりお仲間(ゆーれい)ってこと? え、マジで? 初めて見た、え、千里眼ってホント? うっそすげえマジで?》
「ああ、マジだ」
思考を推敲もせずそのままつっこんでくるシガネに今度は獣が若干引くが、表面上は穏やかに答える。
《じゃあさ、別に私が殺したわけじゃないってのも分かるよね? あの人機体たくさん持ってたからこんなロートル一個ぐらい拝借してても全然ばれないしすごい便利だったんだよ。でもなんか死んじゃってさ、さすがに死んだら遺産分けとか資源回収とかあるしばれるじゃん?》
まともな神経であれば不謹慎どころかそれこそ罰当たりだと眉をひそめそうな発言だな、と思いながら獣は相槌をうつ。
非科学的と呼ばれる身分になってからそれなりに長く存在し、海千山千を自認するそれも、まさか彼女がここまでの勢いで食いついてくるとは予想していなかった。
「まあ体がないと難儀するだろうな」
《そうそう、いくらものに憑けるって言っても、人型の方がいろいろ便利だもん。あなたもさっき言ってたけど外に出たりとかね。これわりと量産型だから誰が持ってるやつだーとかパッと見じゃわかんないし、その点もけっこういいよ。あ、そういやあなたはなんでアバター操ったりしないの? それが素顔なんでしょ?》
「ああ、言ったと思うがわたしは古いやつだからあまり科学には適応できなくてな。正直なところ、通信ではああして短文を送るだけで精一杯だし、半端に実体があるから取り憑くことも難しい。土いじりはできるからそこはいいんだが」
《ふぅん、大変ね。ん、じゃあまた今度遊びに来よっか? 花とか草とか好きなら持ってくるよー》
「ああ、ありがとう。では、また機会があれば。気を付けてな」
《じゃーねー、えっと……》
「特に名前はない。好きに呼ぶといい」
《うーん、じゃあ、犬。頭が犬っぽいから。
ばいばーい、犬》
「さようなら、お嬢さん」 くるっと踵を返して足取り軽く部屋を出ていく少女の背中を見送りながら、犬と呼ばれた獣は深く息をついた。
友人には若すぎる、と呟く。
 
 実に、実に良い時代だ。
肉の身を失っても霊が残っているなら使える体がいくらでもある。
生身の人間が外に出ることはあまりないうえ人同士が私的に会うことも少ないから、人形を使ってさえいればその持ち主は生きているように見える。
仕事の面は取り繕うのに難儀するかもしれんが、最悪ばれても乗り逃げしてしまえばいい。
人が生身から直接情報を発信し、無線で人形を操れるこのような時代に幽霊など誰が本気にするものか。
「まったく、実に住みよい時代だろうな。我らにとってどうかはともかく」
良心を投げ捨ててしまえば、亡霊どもにとってはこれほど楽な時代はないだろう、と、獣の頭を持つ旧い神はカラタチに向かって一人ごちた。