違和感を覚えたのは、その章を読み終えた時でした。頭の中で、誰かが何かを呟いているような感覚がありました。何なのかはよく分かりません。珍しく小説に感情移入なんてしたから、そのせいでしょうか。そんなことを考えている今も、声はぼそぼそと何事かをささやいているのです。
(……い。…に……い。…か……)
女の人の声にも聞こえます。
(だ…らこ…、…んきに…る…も……ない)
ついに呟きが意味のある言葉として届きました。
(たぶんこれは、面白い事だ)
違う。そう感じた瞬間、鳥肌が立ちました。私の中からは絶対に出てこない思考です。これはたぶん小説が面白い面白くないの話ではなく、今の「頭の中で他人の声がする」という状況への感想でしょう。平穏を好む私としては受け入れがたい現象を楽しむこの思考は、一体何? いや、そもそも声の主からすれば、今は「他人の頭の中でしゃべっている」状態のはず。悪くすると、これは「何者かが脳内への侵入に成功した」ということに―
その思いつきのおぞましさに、またも鳥肌が全身に立ちます。冷静に考えればありえないことですが、そんな余裕はありませんでした。悲鳴をあげる一歩手前で、またあの声が聞こえました。
(ああ、ごめんごめん。怖がらせる気はなかったんだ。ただのひとりごと)
それが理性的な口調だったため、わたしはいくらか落ち着きを取り戻します。それでもまだうわずった声で尋ねました。
「あなたは、いったい、なになんですか?」
(いやあ、それがアタシにもよく分かんなくてさ。とりあえず人間、日本人であることは確かかな。侵略者とかじゃないよ。あと、たぶん女。いま自然に「アタシ」って出てきたから)
「……私の知ってる日本人女性は人の頭の中に話しかけたりはしません。
たぶん、とか、とりあえず、ってどういうことなんですか」
(だからよくわかんないんだよ。記憶喪失、みたいな。気付いたら精神体とかビックリ。なんでこんなことになったかまるで見当がつかない。超困る)
「精神体って…」
(まあ、体がない、的な? きっと幽霊じゃないと思う。そう信じる)
わけがわからない。何を言ってるんだ。いや、向こうの事情は関係ないでしょう。今重要なのは、どうしたらこれがいなくなるのか。それしかありません。
「そう、ですか。では、速やかに他の人に乗り移るなりなんなりしてもらえますか?
私にはあなたをどうにかすることはできません」
(んー……無理っぽい。やってみたけど、移動する先がないし。あと霊じゃないから、乗り移るとか言わないで。今一番心配なのはそれだから。てかアンタ敵意すごすぎ、ちょと引く。まずは落ち着いてよ)
得体の知れない存在から落ち着けと諭されるのは腑に落ちませんが、確かに冷静になったほうがいいでしょう。
「じゃあ、とりあえず呼び名を決めてくれませんか? 名前がないって不便ですよ」
(うーん…『ショウコ』でいいか。小説読んでたのが直前の記憶だから、小説子さんを縮めてショウコってことで。確かに名前がつくとなんか安心感があるね。アンタは?)
「私? 私の名前…も、ショウコです。あきらこで晶子」
(ふーん、同じ名前、ねぇ。両方ショウコだとややこしいから『あっこ』って呼んでいい?
思ったんだけど、共通点を探してみようよ。原因がわからないと、戻るもへちまもないし。例えば小説。アンタの読んでたソレ、アタシが読んでたのと同じ)
言われて、手に持ったままだった本に視線を落としました。
「SF描写とかはないですけど…。少なくとも読んだ所は普通に青春小説です。この章の主人公ってなんか私に似てるなあって思ったぐらいで、その他は特になにも…」
(それだ!)
大声が頭に響きました
(それだ、むしろそれしかない。話した限りじゃ性格の共通点なんて皆無だったんだ。本当に小説介して憑依なんて有り得るのか? いや有り得てる、今実際に!)
声…いやショウコは興奮してまくしたてます。
「あの、なんか話が見えないんですが…」
(アタシもこの子に感情移入してたんだよ! 心から! きっと、同じタイミングで同じ人物に共感して、それがなんやかんやしてこうなったんだ! たぶん!)
「あなたが落ち着いてください、ショウコ。原因は仮にそうだとしましょう。ならどうやって元に戻るんですか?」
(もっかい読んでみよう。できるだけ同じことを考えないようにして。アタシは出来るだけ冷めた目で見るようにするから、あっこは普通に読んでていいよ。)
「…分かりましたよ。他に何もないですからね」
私はまた同じ章を読み始めました。
【恥の少ない人生を送っています。なぜならば、わたしはとても影の薄い娘だから。わたしの名前を覚えている人はそういない。手のかからない、でも優等生ではない、そんな子はきっと、いなくなっても気付かれないだろう。名前がないと書くのに不便なので、わたしの名前を仮にA子とおこう。……】
(しかしパロディとしてもこの書き出しはどうなんだろうね。A子ちゃんは自分が人間失格とでも言いたいのかな)
「たぶん、そうでしょうね」
【……平凡な世間はやっぱり嫌だ。それに埋没する自分も。なにかやらかしたら自分は正真正銘アルファベットのAでA子になるのかな。でも、それすら埋まって、流されていくんだろうな。記憶に残りたい。このままだと、本当にいてもいなくても何にも変わらない人間になる。……】
(ああ、ここここ。アタシがぐっときたとこ)
「冷めた目で見るんじゃなかったんですか?」
【……明日。明日は、自己主張をしてみる。手を挙げる。間違ってもいい。何か自分の長所を探す。短所も見つける。恥の多い人生を、誰かが「ああ、英子ちゃんってあの子ね」と言ってくれるような人生を送る。】
日記として書かれたその章は、こうして終わりました。違和感は消えません。
(A子じゃなくて英子だよってオチ、さすがに二回目だとなんか、ねえ)
やはりいます。
(あっこ、なんもなんないね。どうしよう?)
本気で途方に暮れたようにショウコが言います。
「さあ? とりあえずのども渇いたし、麦茶でも飲みましょう」
このままずっとショウコが離れなかったらどうしよう。そんなことをぼんやり考えながら、立ち上がって一歩を踏み出すと―
思いっきり転びました。視界の端にお菓子の袋が見えます。あれを踏んで滑った? でも、私はあんなものを部屋に落としたりはしませんし…、あれ? そもそもここって、自分の部屋でしたっけ? 音を聞きつけて、女性がドアから入ってきました。ドアってそこだったっけ? 女性の声とともに、私は意識を失いました。
「ショウコ、大丈夫!」
◇
ベッドの上で目が覚めました。生きてる。ひとまず安心しました。
(あー、痛かった)
ショウコも健在。女性…お母さんは今はいません。頭を打った後はあまり動いちゃいけないそうですが、気絶後の自分というものが気になったので、ベッドの近くに置いてある鏡をとり、顔を見ます。そこには、見知らぬ女の子が映っていました。短い黒髪に、気の強そうな顔。目は驚きに見開かれています。私じゃない。でも、じゃあ、本当はどんな顔かというのは、思い出せない。
「えっ…」
頭の中で、色々なショウコの言葉がつながっていきます。つまり、私は。
(気づいた?)
ショウコの声が頭に響きます。
「ええ、分かりました。思い出せはしませんが」
(そうか)
「わたしが、侵入者だったんですね。記憶喪失で、精神体で、得体の知れない何者か。
そして、この体の本当の持ち主はあなた」
(うん、その通り)
「私に真実を教えなかったのは、錯乱した私が何をするか分からなかったから」
(そこまで分かってるなら、なんでこうなったかの理由も?)
「はい。頭打ったショックで思い出しました。だいたいあなたの推測通りですが、その時私は精神が抜けかかっていたんです。本読みながら歩いてて階段から転げ落ちたから」
(階段から…。じゃあやばくない? どれくらい落ちたの?)
「そこまでは分かりませんが…。 あ、ほら。お約束ですよ。」
(えっ、どうし…)
「おそらくさよならでしょう。記憶喪失の幽霊は、思い出したら成仏するんですよ。
……最初に、ひどいこといっぱい言って、ごめんなさい」
(やめろって…幽霊とは限らないだろ? ほら、アタシの名前教えるよ。どっかで会ったら分かるように。勝つ子でショウコ、勝子だ。生きてたら、何かして伝えてくれよ)
(優しいですね、勝子さん。そっか、私、名前も借り物だったんですね。音をもらって…。
わたし…ほん…う……ま…は…………………)
「何だって? 不便だろ? 名前、知らないと……」
本屋の中を一人の女が歩いている。彼女はとある本を見つけると、それをじっと見つめた。特に著者名を凝視している。本を手に取りページをめくると、火がついたように笑い出した。
「そうきたか! 最高! たぶんこれは、面白い事だ!」
店員が不審に思って近付くと、女はその本を持ってレジへと向かった。涙目になっている。
泣くほど笑える本だったかな、と思って店員はその本をパラパラとめくった。
著者は新人・晶ショウコ。
こんな一文から始まっている。
【違和感を覚えたのは、その章を読み終えた時でした。……】