建物から出てきた人々に、私はそっと触れる。「人々が私に向かってきた」と言う方が本当は正しいのだけど、それは気分の問題だ。彼らの体に残った暖かさをぬぐい去り、代わりに芯まで凍えるような寒さを染みこませる。
「今日も寒いなあ。」
そして誰かが私の名を呟く。《寒い》と。
少し前まで、冬は私と《冷たい》が支配する季節だった。私は空気に、彼女は主に水や鉱物に宿り、あらゆる生き物を震え上がらせていた。しかし暖房器具が発明されてからはあの不愉快な《暖かい》が我が物顔をするようになり、とても腹が立つ。特に最近の住居は密閉されているため私の入る隙間がなく、壁から染み入ろうとしても断熱材に遮られる始末だ。この間などは《涼しい》に「ひとの知恵の前には《寒い》も形無しですね」などと笑われた。この世に生命が現れてから生まれたような新参者から馬鹿にされるのは苛々する。しかもそう言ったのは誰かが暖房の効きすぎた場所から出た一瞬だったので、言い返そうとしたら奴はすでに消えていた。忌々しい。
気分が悪くなってきたので上空から南半球を見ると、《暑い》が元気そうに暑気を振りまいている。私のように空調や《涼しい》に腹を立てることもなくああしていられるのは立派だと思う。皮肉ではなく。そもそもの性質が違うのだから真似ができるとは思わないにしろ、私はあれのことが嫌いではない。見ているとなんとなく安心する。
「また《暑い》でも見てた?」
と、アスファルトから《冷たい》が私に話しかけてきた。
「何がいいのか分からない。わたしはそばにいると暑苦しくて嫌になる」
「暑苦しい? 私はむしろ落ち着いていると思う」
私がそう答えると、《冷たい》は不機嫌そうに言った。
「いつもは会わないからそう感じる。毎日のようにあれに温められてみろ。きっときみも嫌気がさす。ところで、『会う』というがどこで会う?」
「砂漠で夕方や朝に時々すれ違う。昼間はあれで、夜は私だから。あとは空の上。ぶつかって雲をつくることがある」
なるほど、と《冷たい》は一応納得したようだ。
「あれもきみを優しいとか気品があるとか言っていた。互いに相手をよく知らないからそう感じるんだろう」
「確かに優しくはない。だけど、『気品がある』というのは誤解ではないと思う」
「品があるというより気位が高いと形容する方が正しい。《熱い》とはあれの話をしないのか? 《暑い》のことなら山ほど知っているだろうに」
私は少し考えてから答えた。
「あまりしない。《熱い》は外にいることが少ない。屋内で《暖かい》なんかと一緒にいるのをたまに見かけるくらいだ。それに、私とあれはあまり相性がよくない」
「それこそわたしと《暑い》のようなものか」
「たぶんそうだ。……あ、子どもが氷で遊んでいる」
「そういえば水たまりが凍っていた。いや、わたしが凍らせたか」
《冷たい》と私はしばらくその子どもを眺めていた。《冷たい》が言う。
「ああも無邪気に喜ばれると、こちらとしては困る。どうしてひとの子は雪や氷を好くのか」
「分からないが、見ていて面白い。どれくらい大きくなると興味を示さなくなるのか、調べてみようか」
「もし本気で言っているのなら、急いだ方がいい。まだ生き物の周囲や日向だけだが、ここも《暖かい》が野外に出てくる時期になった。こうなると雪が降ることが少なくなってくる。ほら、あの子どもの背中にもいる」
言われて見てみると、確かに背中の方に《暖かい》がまとわりついている。せっかく気分が良くなっていたのに、一気に気持ちが沈んだ。あいつのせいだ。こちらに気づいたのだろう、能天気に声をかけてきた。
「《寒い》、久しぶり。元気だったか?」
「私たちには元気も不調もない。『上機嫌か』と聞いているのなら、答えは『いいえ』だ。あと『久しぶり』と言うが、お前が気づいてないだけで毎日のように会っている」
自分もわたしに言われるまで気づかなかったくせに、と《冷たい》が呟いた。私のトゲのある返事など気にもせず、《暖かい》は続ける。
「最近あったかいから、《寒い》には辛いだろう」
「おまえのせいだ。それに、少し赤道を離れれば気温は下がるから心配されることでもない」
分かったらその子どもについていろ、それこそ私のせいだがここは寒い、と私が言い捨てると、《暖かい》はおとなしく子どもの背中に意識を戻した。と思ったが、その前に奴はこう言い残した。
「ずいぶん《寒い》は丸くなった。昔は生き物に気を遣うなんて絶対にしなかったのに」
その言葉に私はいつになく本気で怒りを抱いた。周囲の気温がいくらか下がったような気さえする。気が済むまで思う存分罵倒してやりたかったが、さっきから《冷たい》が私に冷ややかな視線を向けていたのでなんとかこらえられた。しかし、言うに事欠いてこの《寒い》が「丸くなった」だと? ありえない。
《暖かい》が近くにいると怒りを抑えられなくなりそうなので、私は上へと向かった。生物など一匹たりともおらず、あんな軟弱な感覚には存在できないような高度へ。
高度が上がり気温が下がるにつれ、だんだん気分も落ち着いてきた。そもそも地上になんているから、《暖かい》に腹を立てたり人間に気を回したりなんて無様な真似をするようになる。これからは雲のすぐ下などで過ごすようにすればいい。下には一年に一度も降りれば十分だ。別に私がどこにいようと、とりあえず存在さえしていれば気候に影響はないのだから。そう決意を固めていると、高温の気流が突然吹いてきた。気がつかなかったが、私のいる位置からも低温の風が向こうに吹いている。もしやと思って高温の方を見ると、そこに《暑い》がいた。
「いつ以来になるかな、《寒い》。きみが突然ここまで昇っていったから、どうしたのかと思って見に来た。何かあったのか?」
言っている内容はさっきの《暖かい》とあまり変わらないのに、この違いはどこから来るのだろう。生命や物質がなくとも存在を保てることから生まれる威厳だろうか。いや、それなら私にも同じように備わっているはずだ。ならば、これは単なる性質の違いだろう。空調風情に脅かされる私と、自分のやるべきことを確実に為す彼は根本的に違うのかもしれない。私が返事をしないのを見ると、《暑い》は続けた。
「きみが何に悩んでいるのかは知らないが、それは恥ずべきことではない。
まあ、わたしが言っても説得力はないのだろうが」
「……いや、そんなことはない」
「そうか、ならば良かった。なにしろわたしは考えることが苦手だ。《涼しい》にはよく馬鹿にされている。だから、いつ会っても静かに何事かを考えているきみは立派だと思う。ああ、皮肉ではない。
ともかく気にすることはない。じき氷河期が来る。そうなればきみの…きみと《冷たい》の天下だ。われわれは地殻にでも潜って見物するしかなくなる。《暖かい》は生き物がいる限り地表にもいられるが、些細なことだろう」
ではまた会おう、と《暑い》はどこかに去っていった。私はぼうっとなっていた。彼が私を立派だと思っている? それに、氷河期は確かに来るが「じき」と言うほど近くはない。私は《寒い》として《暑い》よりはよほど敏感にそれの到来を感じ取れる。おかしな気分になった。正直に言うと、私は《暑い》に憧れていた。ひとが低温を征服し始めた頃から。その憧れがどこかへ飛んでいってしまったようだ。幻滅、ではない。が、遠かったあれを、ひどく身近に感じた。
《暑い》と話しているうちに毒気を抜かれ、私は地上へと戻ってきた。だいぶ日が経っていたようで、気温が高くなっている。私が《暖かい》を嫌っていたのは、たかが生き物の持つ感覚ごときが自分のテリトリーに入るなんて、と見下していたからか。縄張り意識というものが私たちに、私にあるのかは知らないけど。前のことを謝ろうと思って《暖かい》を探していると、いつか氷で遊んでいた子どもの家の中にいるのが見えた。まだあの子どもについているのだろうか。声をかけようとしたが、その家の周囲には日陰がほとんどなかった。これでは近づけない。すでに日向はあれの場所になっているため、私には立ち入れないのだ。やや遠くから《暖かい》を眺めると、やけに真剣に子どもを見守っているのが見えて少し笑えてしまった。あんな遠くから声が聞こえるはずもないのに、《暖かい》がこちらを向く。
もうすぐ春だなあ、と誰かが呟いた。